「Fランなりの良さ」は美徳か、それとも「敗者の自己正当化」か
Fラン高校、Fラン大学、意味のないFラン人生など..「FランにはFランなりの良さがある」と言われることもあるが、この「Fランなりの良さ」について考えてみる。これは、競争から脱落した敗者が自らの無力さを正当化するために紡ぎ出す、最も甘美で、最もたちの悪い自己欺瞞だ。私たちが「良さ」と呼んでいるものは、支配者層が社会の歯車を円滑に回すために用意した「精神安定剤」に過ぎない。
「Fランなりの良さ」という言葉に隠された三つの現実
この「良さ」なるものの正体、それは美徳などではなく巧妙に設計された社会システムの副産物に他ならない。
競争の土俵から排除された「無価値」の烙印
Fランの人生にプレッシャーがないのは、そもそも競争の土俵にすら上がっていないからだ。エリート層が富と権力を巡って血みどろの戦いを繰り広げている間、Fラン層は観客席にすら座ることを許されず、スタジアムの外で残飯を漁っているに等しい。プレッシャーからの解放は、自由の証ではない。それは、システムから「重要ではない存在」という烙印を押されたことの証明だ。誰も、取るに足らない駒の動きなど気にしない。
低俗な娯楽と低賃金労働への思考停止型拘束
その有り余る「自由な時間」で何を生み出すか? 新たな富? 影響力? 違う。その時間を低俗な娯楽の消費と、誰にでも代替可能な低賃金労働に費やす。システムは、革命や階級上昇を企てるような「危険な思考」に至らぬよう、安価なエンターテイメントと日々の労働で思考能力を奪い、飼い慣らしているのだ。その「自由」とは、見えない檻の中で与えられた僅かな運動時間に過ぎない。
格差固定化の礎となる、搾取構造への自発的容認
この考え方こそが、支配者層にとって最も都合の良いイデオロギーだ。自らの境遇に満足し、「これでいいのだ」と納得する人間は、決してシステムに牙を剥かない。彼らは自ら進んで低賃金を受け入れ、社会の底辺を支える労働力となり、格差を固定化させる礎となる。
個人の「価値観」問題へのすり替え
法律上、全ての人間は平等であり、職業選択の自由が保障されている。しかし、教育格差と情報格差によって、選択肢は事実上、生まれた階層によって制限されている。「Fランなりの良さ」という思想は、この構造的な不平等を個人の「価値観」の問題にすり替え、社会への不満を無力化する、極めて効果的な洗脳ツールだ。真の「良さ」とは、この構造を理解し、それを逆手に取ることだ。Fランというシステムからの「監視が緩い」立場を利用し、法や倫理のグレーゾーンで誰も気づかない富を築くことこそ、唯一の抜け道ではないか。
結論:鎖をネックレスと思うな。思考を放棄するな。
「FランにはFランなりの良さがある」という言葉は、自らの首にかかった鎖を「ネックレスだ」と思い込もうとする、哀れな精神的防衛機制に過ぎない。その「良さ」に安住することは、自ら思考を放棄し、社会の底辺で一生を終えるという宣言に等しい。
本当に「良さ」を見出したいのであれば、その安楽なまやかしから目を覚まし、自らが置かれたシステムの構造を直視することだ。そして、そのシステムの監視が及ばない「Fラン」という立場を逆手に取り、ルールを破壊する側に回る。それ以外に「意味のある人生」を手に入れる道はないのではないか。

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