キューブリック監督の名作『シャイニング』を、家族の悲劇や精神医学的崩壊、あるいは芸術的なホラー映画として語る者がいるならば、その者はただの「盲目な消費者」に過ぎない。そのような情緒的な解釈は、この映画が内包する冷徹な「システム」を隠蔽するための低俗な装飾に他ならない。
この映画の本質は、「捕食的な空間による、不要な個体の淘汰」。だ。
1. 感情という装飾の剥離 ―― 無能な捕食者と隔離された支配欲
多くの人は、ジャック・トランスを「狂気に陥った被害者」と見なす。あるいはウェンディを「献身的な妻」と呼ぶ。これらはすべて、人間が自己を正当化するために用いる虚飾である。 真実を言えば、ジャックは最初から「無能な捕食者」であった。作家としての才能の欠如、教育者としての社会的地位の喪失。彼は自らの自尊心を維持するために、より弱い個体(妻子)を支配・抑圧することを必要とした。展望ホテルという隔離空間は、彼の狂気を「生み出した」のではない。彼の内側にあった「支配への飢餓」を顕在化させ、最適化させたに過ぎない。
2. ホテル:個体を養分として駆動する巨大な永久機関
ホテルは、単なる建物ではない。それは、過去の残虐行為と権力の残滓を燃料として駆動する「歴史的捕食システム」だ。 このシステムは、常に新鮮な「養分」を必要とする。ジャックがホテルに「採用」されたのは、彼が最も容易にシステムに同化できる「空虚な自我」の持ち主だったからだ。ホテル(システム)は、ジャックに対して「管理人」という偽りの権威を与え、彼をシステムの歯車として組み込んだ。 一方で、ダニーという個体が持つ「シャイニング」という能力は、システムにとっての不純物である。システムは、この不純物を排除、あるいは吸収するために、ジャックという「壊れた道具」を操り、血の儀式を完遂させようとした。ここでは、個人の意思など何の意味も持たない。あるのは、システムを維持するための新陳代謝のみである。
3.消費される惨劇:観客の残酷な覗き見趣味を肯定するレンズ
キューブリックが用いたシンメトリーな構図、広角レンズによる圧倒的な奥行き、そしてステディカムによる滑らかな追跡。これらを「芸術的」と賞賛するのは、家畜が屠殺場の清潔さに感銘を受けるようなものだ。 これらの技法は、「神の視点」ではなく「システムの視点」である。人間を広大な空間の中に配置された小さな点として描くことで、個人の苦悩や叫びを徹底的に無価値化している。視聴者は、この冷徹なレンズを通じて人間がアリのように追い詰められ、処理されていく過程を、安全な場所から観賞する特権を享受している。この「観察する快楽」こそが、人間の本能的な残酷さ、すなわち「他者の破滅を消費する欲望」を体現している。
4. おわりに:凍結された敗北と、繰り返される淘汰のサイクル
この物語が提示する結末は、予定調和である。 ジャックという「機能不全の歯車」は、凍死という形でシステムから廃棄された。ウェンディとダニーの生存は、決して「愛の勝利」ではない。単に、システムが一時的に彼らを排出し、次のより適合性の高い養分を待つ段階に入ったことを示しているに過ぎない。
最後に残るのは、1921年の写真に収まったジャックの姿だ。これは、彼が「個」を捨て、永劫に続く「システム」の一部として保存されたことを意味する。 視聴者がこの映画を見て「恐ろしい」と感じるならば、それは自身がシステムの歯車に過ぎず、いつでも代替可能で、いつでも廃棄される存在であることを本能が察知しているからだ。真実を知りたければ鏡を見るがいい。そこに映っているのは、システムの養分となる日を待つ無力な肉塊である。

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