この男、本当にあなたの夢にいたのか?──いや、そもそも「いた」と信じたいのは、あなたの脳なのだ。
2006年、世界を震撼させた「This Man」都市伝説。太い眉、無表情な顔、そして何よりも誰もが見たことがあるような、ないようなあの奇妙な既視感。2010年代、その全貌が「ウイルス型アートプロジェクト」であることが明らかになった。なのに、今でもSNSでは「昨日この男の夢を見ました」という投稿が後を絶たない。
なぜ、真相を知った後も「信じる」ことをやめられないのか。なぜ、創作だと分かっていても「本当に見た気がする」のか。この謎に、集団心理実験の黒歴史が答えを出す──。
序章:This Manはまだ生きている
X(旧Twitter)に投稿されたある投稿が2万リツイートを超えた。
「This Manの話、創作って知ってたけど、先週深夜に初めて夢に見た。絶対に見た。眉の形と鼻の大きさが完全一致。これってもしかして本当にいたのでは……?」
この投稿のコメント欄には、「それ見たことある」「私も去年から見てる」「創作なのに見えるの謎すぎる」という声が殺到。ひとつ奇妙なことに、誰一人として「嘘だ」と指摘しない。代わりに、「信じたくなる気持ちは分かる」という共感の言葉が並ぶ。
これはただの錯覚なのか。それとも、脳が自らに言い聞かせる「物語」なのか。
実は、この現象は90年前の心理実験室で予見されていた。
1: This Man現象の真実と虚構の境界線
創作判明の経緯
2012年、This Manの正体が「イタリアの広告代理店とアーティストの共同プロジェクト」であることが明らかになった。当初の目的は「情報がウイルスのように拡散する条件」を実験することだった。似顔絵のモデルは実在の人物だが、夢に見たという証言は大半が作り話だった。
それでも語られ続ける理由
それなのに、真相後も「見た」体験が報告されるのはなぜか?答えは「創作だと知った後に初めて見る」人々の存在だ。つまり、事前情報が錯覚を生むという逆説的メカニズム。
錯覚と確信の間で揺れる脳
脳には「曖昧な情報を自らの経験に同化させる」という本能がある。This Manの顔は「どこかで見たことがある」デザインだが、それは「見たことのある顔の部位を組み合わせた」からだ。例えば、
- 太い眉:権威ある年配男性の印象
- 大きな鼻:特徴的だが悪印象を与えない中庸のサイズ
- 無表情:感情解釈の自由度が高い
これらが、あなたの記憶の断片とシームレスに結びつく。そして脳は「整合性を取ろう」と、存在しない夢の記憶をでっち上げる。
2: ロスフェルト実験が教える「信じさせる」技術
1939年、見えない線を見せた心理実験
心理学者チェスター・ロスフェルトが行った実験はこうだ:被験者に10本の線を見せ、「どれが最も長いか答えよ」と指示。正解は明確だった。だが、他の被験者(実は偽物)が全員「3番が最長」と答えると、本物の被験者も「確かに3番が……」と答え始めた。
32%の被験者は、自分の目で確認した記憶を否定し、集団の意見に従った。
認識的不協和が生む「偽の記憶」
これは認識的不協和理論の典型だ。「私は正しい」と「他の人は違う」との矛盾を解消するために、自らの記憶を書き換える。This Manでも、「世界中の人が見てる」という情報が、あなたの脳に「見た記憶」を作り出す。
This Manは自発的なロスフェルト実験か
This Manのサイトが「世界中の証言」を掲載したのは、まさにロスフェルト実験のデジタル版だ。見たことがない人でも、「他の人が見てる」と知ることで、自分の記憶を疑い始める。そして脳は「整合性を取る」ために、夢の断片をでっち上げる。
集団の声が、個人の記憶を書き換える。これが、真相後も信じ続ける最大の理由だ。
3: アッシャー効果とストライプ・ミュアラー効果
「他の人も見た」と言われると本当に見える
社会心理学者アッシャーが発見した効果:ある情報が「多数派の意見」であると提示されると、人は自らの判断を「それに合わせて」変える。This Manのサイトが「数千件の証言」を誇示したのは、まさにこのトリガーを引いていた。
記憶の「ソーシャルプルーフ」現象
マーケティング用語の「ソーシャルプルーフ」(社会性の証明)は、記憶にも適用される。Xの投稿が2万リツイートされることで、「This Manを見る」体験は「普通の現象」のように錯覚する。あなたの脳は「ならば私も」と判断する。
エコーチェンバーが引き金になる瞬間
SNSのアルゴリズムは、一度This Manに興味を持った人に、同様の体験談を繰り返し表示する。これにより「私だけではない」→「周りも見てる」→「本当に見たのでは?」というループが生まれる。これはストライプ・ミュアラー効果(反復曝露効果)の悪魔的応用だ。何度も見ることで、偽物が本物に見える。
4: 脳科学から読み解く「夢の記憶の捏造」メカニズム
海馬の「想起再活性化」が作るデジャヴ
脳の海馬は、記憶を想起する際、実際に体験した時と同じ経路を再活性化する。This Manの顔を見ると、「どこかで見た」という曖昧な情報が、海馬に「この顔の記憶ファイル」を探させる。だがファイルは存在しない。そこで脳は最も近い記憶(夢の断片)に「This Man」タグを付けて保存する。これが「夢で見た」という確信の正体だ。
扁桃体の感情タグが曖昧さを確信に変える
扁桃体は、記憶に感情価(怖い、不思議、重要)を付与する。This Manの話には「謎」「恐怖」「世界規模」というタグがついているため、扁桃体は「これは重要な記憶だ」と判断。重要度が高いほど、脳は「確信」を強化する。これが、創作だと分かっていても「信じたい」理由だ。
前頭前野が問いかける「本当に見たか?」
だが、前頭前野(論理的思考の中枢)は「客観的証拠がない」と警告する。しかし、この警告は感情に比べて圧倒的に弱い。脳の進化的に古い部分(扁桃体、海馬)が「見た」と言い、新しい部分(前頭前野)が「でも」と抗議する。最終的に感情が論理に勝つのが、「信じたい脳」の構造だ。
5: なぜ「信じたくない」真相を拒むのか
自己叙説の統一性を守る本能
人間は 「自分についての物語」を統一させたがる。一度「This Manを見た」と宣言したら、その後に「創作だから嘘でした」では物語が破綻する。そこで脳は「でも本当に見た気がする」と解釈を補強して、自己叙説の整合性を保つ。
SNS時代の「体験の見栄え」
現代のSNSでは、「特別な体験」がソーシャルステータスになる。This Manを見たことは 「選ばれた体験」 として価値がある。真相を知れば価値が失われるため、無意識のうちに「信じたい」方向に解釈を曲げる。
神秘的なものを求める脳の報酬系
脳の報酬系(ドーパミンニューロン)は「予測不可能な報酬」に最も反応する。This Manは 「謎の存在」→「創作判明」という予測不可能な展開 を提供した。これにより脳は報酬を得て、「次も何かあるかも」と期待する。つまり、信じ続けること自体が脳の快楽を生むのだ。
結論:あなたの脳は、すでに物語を選択している
This Manという都市伝説は、もはや「創作か実在か」という問題ではない。それは 「人間がどれほど簡単に、自らの記憶を書き換えられるか」という実験 だった。そしてその実験は、2025年の今もあなたの脳の中で続いている。
「見た」と信じることは、真実を見つけることではなく、自分の脳の物語を守ることなのだ。
あなたの記憶はどこまで本物か?──3つの再検証方法
1. タイムスタンプ法:「いつ、どこで、その情報を初めて見たか」をSNSの履歴で確認。多くの場合、 「見た気がする」は「聞いた」 が起源だ。
2. 感情逆算:「その記憶に強い感情がある」なら、扁桃体が過度に介入した疑い。逆に 「感情が曖昧」なら、海馬の誤作動 だ。
3. 集団圧力チェック:「他の人も見てる」と思った瞬間、あなたはロスフェルト実験の被験者だ。一度全員の意見を忘れて、自分だけの記憶を掘り返せ。
今夜、夢の中でThis Manが現れたら、こう問いかけてみてください。
「あなたは、私の脳が作った物語なのですか?」
そして目覚めたら、もう一度この記事を読み直してください。あなたは、自分の脳に騙されない選択を、すでに始めているはずだから。

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