2023年のLinkedIn調査によると、プロフィールに「情熱を持って取り組んでいること」を記載しているユーザーは、記載していないユーザーに比べ、採用担当者からの接触率が37%高い(出典:LinkedIn Talent Solutions, 2023)。この数字が示すのは、現代の労働市場が「情熱のパフォーマンス」を強く要求しているという現実だ。
小さな行動が「偽の情熱」よりも価値を持つ理由
私たちは「情熱」を壮大な物語として語るよう訓練されてきた。しかし、スタンフォード大学の心理学者キャロル・ドゥエックの研究(出典:Dweck, C. S., 2006, Mindset: The New Psychology of Success)が示すように、人間の興味や能力は固定的なものではなく、経験を通じて発展する。真の「やりたいこと」は、最初から完全な形で存在するのではなく、小さな実験の積み重ねから徐々に形作られる。
イギリスのデザイナー、トーマス・ヘザーウィックは、世界有数の建築家として知られるが、彼のキャリアは小さな試行錯誤から始まった。大学卒業後、明確な「やりたいこと」がなかった彼は、様々な素材で小さなオブジェを作り続け、そのプロセスから独自のデザイン哲学を構築した(出典:Heatherwick Studio Official Biography)。
情熱経済(Passion Economy)という幻想と現実
現代は「情熱経済」の時代と言われる。ベンチャーキャピタルのアンドリュー・チェンらが提唱するこの概念(出典:Chen, A., 2019, “The Passion Economy and the Future of Work”)は、個人が情熱を収益化できる機会が拡大していることを示す。しかし、ここに落とし穴がある。
この経済構造は、個人に「収益化可能な情熱」を持つことを暗黙に要求する。SNSでは「好きなことで生きていく」成功談が溢れ、逆説的に「まだ情熱を見つけられていない」人々に不安を抱かせる。
なぜ「やりたいこと探し」が逆効果になるのか
ハーバード大学の心理学者ダニエル・ギルバートの研究(出典:Gilbert, D., 2006, Stumbling on Happiness)は、人間は未来の自分の感情を正確に予測できないことを示している。これは重大な示唆を含む。「これがやりたい」という現在の確信が、実際にそれを追求した未来の幸福感を保証しないのだ。この科学的知見に基づけば、「絶対にこれがやりたい」という確信を求める探索は、本質的に不可能な探求と言える。むしろ、この探求そのものが不安の源泉となる。
構造的圧力から自由になる:3つの実践的アプローチ
1. 「情熱の多様性モデル」の採用
従来の「ひとつの真の情熱(One True Passion)」モデルを捨て、以下の3タイプの情熱を認識する:
- 発見型情熱:好奇心駆動。新しい知識や経験を求める
- 創造型情熱:表現駆動。何かを生み出す過程自体に価値を見出す
- 実践型情熱:影響駆動。現実世界に具体的な変化をもたらす
この分類は、ロバート・ヴァレランドらの情熱の二重モデル(出典:Vallerand, R. J., 2003, “Les passions de l’âme: On obsessive and harmonious passion”)を発展させたもので、実際に個人が複数の情熱タイプを同時に持つことが心理学的に可能である。
2. 「否定的自己決定」の活用
「何がしたいか」よりも「何をしたくないか」から始める。このアプローチの有効性は、行動経済学の「消去法選択」研究(出典:Schwartz, B., 2004, The Paradox of Choice)で支持されている。選択肢が多いほど人は不安になるが、消去プロセスにより認知負荷が軽減される。
【実践手順】
- 絶対に避けたい環境、人間関係、作業内容をリスト化
- その逆の条件を抽出
- 残った選択肢から最も抵抗の少ないものを試す
3. 探索的実験のシステム化
「情熱探し」を壮大な旅ではなく、科学的実験として再構成する:
- 仮説設定:「〇〇に関心があるかもしれない」
- 最小限の実験:短時間・低コストで試せる形に落とし込む
- データ収集:感情・思考・身体反応を客観記録
- 分析:パターンを発見し、次の仮説を立てる
未来予測:2040年の「情熱」概念
AIと人生100年時代の到来により、2040年までに「情熱」概念はさらに変容する可能性が高い。経済協力開発機構(OECD)の未来スキルレポート(出典:OECD, 2020, Skills for 2040)は、「適応的専門性(Adaptive Expertise)」の重要性を指摘する。これは、特定分野への深い情熱ではなく、変化する環境で新たな専門性を獲得する能力を重視する考え方だ。
この未来において価値を持つのは、「唯一の情熱」を見つける能力ではなく、「複数の潜在的関心領域を並行して探求し、必要に応じて深化させる」メタ能力となる。
結論:空白の生産性
「やりたいことが見つからない」という状態は、欠落ではなく、可能性の空白地帯だ。外部からの情熱要求に応える演技を一時停止し、空白を保持する勇気が必要である。
最終的に重要なのは、「これが私の情熱だ」という物語を完成させることではなく、小さな実験を継続するプロセスそのものにある。私たちが今感じる「空白」は、既成の物語に回収されていない、オリジナルな生の素材なのだ。

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